PROFILE
1940年5月2日生れ。東京大学土木工学科卒業後、1年間のサラリーマン生活の後、新しい世界像と人間のあるべき姿を求め、研究生活に入る。あらゆる学問を渉猟した後、新しい世界哲学「神文学」を確立する。神文学は、政治機構・経済・哲学・生活形態・文化・歴史観など、新世界像・人間像が広範囲にわたり提示されており、既存のものにはない新しい世界像・人間像を作り出し、新世界秩序を建設すること(これをZ計画という)を目的とした学問である。
その詳細は著書『神文学断章』『神文学用語集』に詳しい。現在、ZX(ザイクス)帝國=第四帝國軍帥、地極産業株式会社代表取締役会長、株式会社Platon代表取締役社長。著書に『古代イスラエルと日本民族の秘密─戦争と平和の神〈1〉』(出版文化社刊)『大日本帝国滅亡に隠された秘密目的─戦争と平和の神〈2〉』(出版文化社刊)『日本の未来を読む』(ゴマブックス刊)他多数。
伯壬旭軍帥の少年時代?天命を自覚するまで
─少年時代の軍帥は、無口な少年であったが、友だちと野球をしたり、函けりをして遊ぶ活発な少年であった。しかし、軍帥の興味の中心は、三国志や信長や西郷、プルターク英雄伝やナポレオンなどの世界歴史の綺羅星の如き英雄たちの物語にあった。
以下、軍帥が自分のことをお書きになられた御論文より抜粋してご紹介する。
絵本から始まった歴史探訪
私が小学校に上がったのは敗戦の翌々年の昭和22年であり、民主主義教育が始まったばかりの時であった。教科書も戦前のカタカナを使ったカチッとしたものから、ふにゃけたひらがな文に変わっていた。一億(といっても当時は八千万余りだったと記憶しているが)総ザンゲの時代であり、戦前のものは一切合財(イッサイガッサイ)否定された時代であった。民主主義教育が叫ばれ、万民平等の平和教育が占領軍本部GHQの手によって執こいまでに繰り返された。誇りを失った教師たちは、日本の全歴史を否定し、日本はダメだ、日本人はダメだ、と繰り返し生徒たちに教えこんだ。生徒たちはそのまま日本はダメな国であり日本人はダメな民族なのだ、と思いこんだ。
だが幼かったが私は全くその思想に感応しなかった。というよりはその思想を全く受け入れなかった。(日本は立派な国だ、日本人は偉大な人物をいっぱい出している。)私は日本の歴史が好きで沢山の本を読んでいた。絵本から始まった歴史探訪は年令とともに読本(ヨミホン)の英雄豪傑伝に移っていた。源義経から始まった英雄崇拝は織田信長、豊臣秀吉、日本武尊、西郷隆盛、勝海舟へと拡大していた。読めば読むほど日本は偉大な武人像で満ち満ちているのを発見し、「日本はだめだ」と嘲笑う教師の唇元を見る度に(西洋のどこに信長がいるか、西郷がいるか)と底冷えのする怒りが歯の根本を侵してくるのを覚えていた。
自然破壊への憤りは半端のものではなかった
会社に時間を取られる生活を強いられてどれほど時間が大切なものかを思い知った。退社して寮に帰ってくると直ちに勉強を始め、朝の二時三時までいろいろな本を読み漁った。歴史、政治学、経済学、法学、哲学等を寸暇を惜しんで勉強した。勉強というものは相手に合わせてするものではなく、自分の興味をとことん追い求めるものだ、ということを痛感しながら没頭した。ボーッと錆びついていた頭はみるみるうちに嘗ての冴えを取り戻し、あらゆる知識を頭にぶちこみながらあらゆる問題を考えていった。経済学ではケインズ経済学からマルクス経済学に移り、マルクス・エンゲルス全集を買い込んで『資本論』や『反デューリング論』を読みながらレーニンとトロツキーにのめりこんだ。私の中の革命家が眠りから醒めた。革命家になりたいと心底願った。レーニン等に深く傾倒しながら同時にナポレオンに憧れてもいた。
一方、勉強のかたわら私は時々山歩きに出かけていたが、嘗て少年時代に歩いた同じ山を訪れるたびに山がゴルフ場や道路や宅地開発や観光開発によってズタズタになっていくのを目の当たりにして断腸の思いであった。自然破壊への憤りは半端のものではなかった。「自然は神籬(ヒモロギ)なのだ、而るに・・・・・・」という思いに取り憑かれていた。自然破壊を見るにつけ、私の中の古代人はいよいよ強くなり、文明に対する敵意が着実に強まっていった。
なぜああいう愚劣な政治家しか出ないのか
私の関心は次第に政治に収斂していった。全ての勉強が政治に焦点化していった。そして日本の政治は今と変わらず愚劣なものであった。(なぜああいう愚劣な政治家しか出ないのか。)私は民主主義に対して根本的な侮蔑感を以前から懐いていた。歴史の中に登場する偉大な武人政治家にひきかえ、民主政治の中に蠢く(ウゴメく)政治家どもの卑しさは我慢がならなかった。
そして政界を見ると愚劣な輩ばかりなのに私の周りには立派な人物が何人もいた。彼を首相にしたら良い政治をするだろうと思われる人材が何人もいた。だがそれらの人材は政界の泥沼に打って出る野心などまるでなかった。民主政治では野心家しか出られないことを痛感した。
また選挙というものの本質も否定していた。どんなに偉大な人物もどんなにくだらない者も一票は同じ価値しか持たない選挙というものが大嫌いであった。20才になって選挙権を貰って最初の選挙には投票したが、次の選挙からは全て投票所に足を運ばなかった。
民主政治が代表する現代という時代を根こそぎ覆してやろうという意志が電戟のように閃いたのはこんな時であった。私は辞表を呈出し、今度は受理されて退職した。私は小さな数学塾を高校生相手に開きながら、どうやって世界を覆すか模索し始めた。ロシア革命にはマルクス理論があったように、今度の世界革命にもそれに匹敵する理論がなければならない。理論を構築することができなければ私の目指す革命は不可能だ、私は直観的にそう思った。野ッ原にまずレールを敷かなければ列車を走らせることはできない。レールが理論であり、列車が実際行動である。私はマルクスの役とレーニンの役を二つながらこなさなければならない。レーニンになる前に先ずマルクスにならなくてはならない。不可能な感じはしなかったが、容易な仕事ではないことは明らかであった。力不足で人を動かすことができなければ自分一人でも事を起こして死ぬだけだ、私はそう決意した。
(1993年発刊『切断』より編集)